飛鳥時代は、日本の歴史の中でも「国家のかたち」が作られ始めた大きな転換期です。
聖徳太子の登場や大化の改新など、後の日本の政治・文化の基盤となる出来事が次々と起こりました。
仏教が広まり、中国や朝鮮の文化を取り入れながら、日本独自の文化も芽生えた時代です。
この記事では、飛鳥時代の始まりから終わりまでの流れをわかりやすく解説し、主要な出来事や人物、文化の特徴を整理してご紹介します。
初めて日本史を学ぶ方でも、飛鳥時代の全体像をしっかり理解できる内容になっています。
飛鳥時代とはどんな時代?
飛鳥時代の期間と始まり・終わりの目安
「飛鳥時代」とは、おおよそ西暦592年、すなわち推古天皇が即位した年から、710年の平城京への遷都までの約120年間を指す時代です。
一方で、狭義には593年(聖徳太子が摂政となった年)から694年(持統天皇朝の藤原京遷都)あたりまでを飛鳥時代とする見方もあります。
このように時代の始まり・終わりには諸説ありますが、いずれも古墳時代から「天皇中心/律令国家への準備期」という転換点であるという点で共通しています。
なぜ「飛鳥時代」と呼ばれるのか
この時代が「飛鳥時代」と呼ばれる理由は、奈良県高市郡の明日香村(旧称「飛鳥」)一帯に、宮都や政庁が集まり、政治・文化の中心地となっていたためです。
当時、都が完全に固定していたわけではありませんが、飛鳥を中心とする王権・政庁の動きがこの時代の特徴的な「場」として機能していました。
また、「飛鳥」という地名には「砂州」や「川辺の台地」などの地形由来説もあり、古代には「アスカ/スカ」などの語が使われていたとされます。
飛鳥時代に起こった主な出来事
聖徳太子の登場と十七条の憲法
この時期に重要な人物として登場するのが、聖徳太子(574-622)です。彼は推古天皇のもとで摂政となり、国政や文化の指針を整えました。
特に604年には「十七条の憲法」を制定し、「和を以て貴しとなす」「三宝(仏法僧)を敬え」「天皇の詔には必ず従え」といった道徳規範を示しました。
これは后の律令国家形成に向けた政治・社会の基礎作りとも捉えられています。
冠位十二階の制定で始まった新しい政治
さらに、603年(推古11年)には「冠位十二階」という制度が制定されました。
これは従来の氏姓制度(家柄・血縁)を基盤とする政治構造に代えて、能力や徳によって位階を定めるという新たな枠組みを導入したものです。
この制度によって、国の中枢における人材登用のあり方が刷新され、天皇を中心とする国家体制への布石が整えられました。
大化の改新と中央集権国家への一歩
645年6月12日、乙巳の変によって有力豪族であった蘇我氏の実力者が暗殺され、蘇我氏の支配体制が崩れました。
この出来事を契機に、いわゆる「大化の改新」が進められ、公地公民制や班田収授法・年号制定など、中国・朝鮮の律令制度を手本とした中央集権国家への変革が始まりました。
蘇我氏の滅亡と天皇中心の政治体制
蘇我氏の滅亡は飛鳥時代の政治構造を根底から変える出来事でした。蘇我入鹿・蝦夷らを打倒した後、天皇を頂点とする国家体制の実現が現実味を帯びてきました。
ただし、完全な意味で豪族政権が消滅したわけではなく、蘇我氏の血筋・氏族的影響はその後も一定程度続いた点も注目されます。
飛鳥時代の文化と宗教の発展
仏教の伝来と寺院の建設(法隆寺・飛鳥寺など)
日本に仏教が本格的に伝来したのは、6世紀中ごろ、百済から仏像・経典・僧が送られた538年(または552年説あり)というのが通説です。
この仏教伝来に伴い、やがて政治・文化の中心に寺院が建てられました。
たとえば、飛鳥寺(法興寺)が創建され、日本最古級の寺院とされる存在です。
また、法隆寺は、7世紀前半に建立された木造建築を今に残す寺院で、当時の仏教文化や建築技術を知る上で重要な遺構となっています。
仏教が国家的にも重要視されるようになったことで、宗教が政治・社会に深く関わる「文化の転換期」が飛鳥時代には訪れたと言えるでしょう。
飛鳥文化とは?中国や朝鮮の影響
この時代の文化を特徴付ける呼び名として「飛鳥文化」という言葉があります。
これは、7世紀前半、飛鳥・斑鳩(かばら)地方を中心に展開した、仏教を軸とした文化を指し、朝鮮半島や中国、さらにはインド・シルクロード経由の影響も見られる「国際色豊かな文化」とされています。
具体的には、百済・高句麗などからの渡来人や文化が、仏教寺院の建築様式・仏像彫刻・装飾などに反映されており、これが「飛鳥文化」の大きな特色となっています。
建築・美術・衣服に見られる文化の変化
建築では、法隆寺をはじめとする寺院建築に、柱や組木(くみき)・斗(と)・蟇股(かえるまた)など、当時の先進的な工法が用いられています。
たとえば、「エンタシス」形の柱や「雲肘木(くもひじき)」などが特徴です。
仏像・美術では、例えば法隆寺の「百済観音像」や飛鳥寺の釈迦如来像といった作品に、止利(とり)派とされる制作技術や、北魏・南朝風の彫刻様式が反映されています。
こうした新しい造形・装飾・衣服装束の変化は、旧来の日本古代文化(例えば古墳時代の装飾・服装)からの転換を示しており、飛鳥時代が“文化の出発点”であったことを裏付けています。
飛鳥時代の重要人物
聖徳太子|政治改革と文化の発展を担った人物
聖徳太子(厩戸皇子)は、推古天皇のもとで摂政を務め、「十七条の憲法」や「冠位十二階」など、国家制度の基礎を築いた人物です。
仏教を背景とする文化振興や、隋(中国)との遣隋使の遣わしなど外交面にも積極的に関与しました。
彼の政策・思想は、その後の律令国家への布石となり、飛鳥時代が「日本のはじまり」を作る時代とされる所以のひとつとなっています。
蘇我馬子・蘇我入鹿|豪族の権力とその終焉
まず、蘇我馬子は、豪族として仏教を積極的に取り入れ、朝廷内で強い影響力を持った人物です。
彼の権勢が極まったことで、後の変革の土台ができました。
その息子である 蘇我入鹿 は、馬子の権力を受け継ぎ、朝廷内での実権を握ったものの、645年の「乙巳の変」で討たれ、蘇我氏の勢力は終焉を迎えます。
この一連の出来事が、天皇を中心とする国家体制への大きな転換点となりました。
天智天皇と天武天皇|律令国家への道を拓いた皇帝たち
天智天皇(中大兄皇子)は、実質的に政権を掌握し、645年の「大化の改新」を主導、近江大津宮への遷都や戸籍の整備などを通じて国家体制の整備に努めました。
続いて、天武天皇は壬申の乱を勝利で収め、律令国家の基盤をさらに強固にし、皇統・政治体制を整備しました。
これらの人物が飛鳥時代を通じて「豪族支配」から「天皇中心の国家」へと移行する鍵となりました。
まとめ|飛鳥時代は「日本のはじまり」を作った時代
飛鳥時代の出来事を簡単におさらい
飛鳥時代は、おおよそ西暦592年(あるいはもう少し前)から710年までの約100〜120年間、日本が天皇を中心とする国家のかたちを模索し始めた時代です。
聖徳太子による「冠位十二階」や「十七条の憲法」による制度改革、さらに645年の大化の改新を契機とした豪族権力の抑制・公地公民制の導入などが、国家体制への大きな一歩となりました。
また、仏教の本格的な受容や、朝鮮・中国文化の影響を受けた建築・美術・服飾などの文化変化も見られ、まさに「日本のかたち」が動き出した時代と言えます。
次の時代(奈良時代)へのつながり
飛鳥時代で整えられた制度や文化は、そのまま次の時代である奈良時代に引き継がれます。
奈良時代は710年に平城京遷都を機に本格化し、飛鳥時代に芽吹いた律令制度・天皇中心の政治体制・仏教文化が、さらに制度化・全国化されました。
律令国家の基盤が確立されたこの流れを理解するためには、飛鳥時代を「出発点」として捉えることが非常に大切です。
このように、飛鳥時代は単に古代の一時期というだけでなく、後世の日本の国家・文化の枠組みを築いた重要なターニングポイントと位置づけられます。
次のステップとしては、奈良時代に入ってからの律令国家の成立や「天平文化」の展開などを学ぶと、飛鳥時代で始まった潮流がどのように発展・成熟していったかが見えてきます。
飛鳥時代の年表(主な出来事)
以下に、飛鳥時代(おおよそ592年~710年)における主な出来事を年次順に整理します。
| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 538年(説あり) | 百済から仏教が日本へ伝来。 |
| 592年 | 崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位。飛鳥時代の始まりとされる年。 |
| 593年 | 聖徳太子(聖徳太子/厩戸皇子)が摂政となる。 |
| 603年 | 「冠位十二階」が制定される。能力・徳に応じた位階制度の導入。 |
| 604年 | 「十七条の憲法」が制定される。役人の心構え・天皇中心の政治の意識が明文化。 |
| 607年 | 遣隋使(小野妹子ら)が隋(中国)に派遣される。 |
| 645年 | 「乙巳の変」によって豪族蘇我入鹿が倒され、大化の改新が始まる。 |
| 663年 | 白村江の戦い。日本が唐・新羅連合軍に敗北。 |
| 672年 | 壬申の乱が起こる。天皇の継承を巡る争い。 |
| 690年 | 持統天皇即位。庚寅年籍(戸籍)など国家制度整備が進む。 |
| 701年 | 大宝律令が制定される。律令国家体制の枠組みが整う。 |
| 708年 | 和同開珎が発行開始される。日本初の流通貨幣とされる。 |
| 710年 | 平城京に遷都され、奈良時代へ移行。 |
※上記は主な出来事に絞った年表です。時代の区切りや出来事には諸説がありますので、あくまで目安としてご覧ください。

