藤原純友(ふじわらのすみとも)は、平安時代中期に活躍した人物で、「藤原純友の乱」という大きな反乱を起こしたことで知られています。
この記事では、藤原純友がどんな人だったのか、なぜ反乱を起こしたのかを、中学生にもわかるようにやさしく解説します。
また、同じ時期に起きた「平将門の乱」との関係や、テストで役立つ覚え方のコツも紹介します。日本史の重要ポイントをしっかり整理して、テスト対策にも役立てましょう!
藤原純友とはどんな人?
生まれた時代と身分について
藤原純友は平安時代中期(9世紀末〜10世紀前半)に活躍した人物で、おおよそ寛平5年(893年)ごろに生まれ、天慶4年(941年)に亡くなったと伝えられています。
彼の出自は、摂関政治で大きな勢力をもっていた藤原北家の一員という説が有力で、父は藤原良範、あるいはその近親という系図も伝わっています。
ただし、家運が落ちた影響もあり、都での出世競争からは後れをとることになったようです。
どんな立場の人物だったのか
純友はもともと都の貴族社会の中にいたものの、地方(伊予国=現在の愛媛県)へ赴任して「伊予掾(いよのじょう)」という国司の役職のひとつを任されました。
この時期、海賊の活動が瀬戸内海で盛んになっており、純友も海賊の鎮圧に当たる立場として動いていたという記録があります。
しかし、やがて彼自身が海賊(ないし海賊的な勢力)と関係を持つようになり、「地方の官僚から反乱を起こす立場」へと変化していった人物として記憶されています。
このように、貴族としての出自を持ちながら、地方での役人としての立場を経て、海賊との結びつきや反乱という異色の道を歩んだ点で、藤原純友は非常にユニークな人物と言えます。
藤原純友は何をした人?
「藤原純友の乱」とは?
藤原純友が起こした反乱は、10世紀・承平・天慶の乱の一部として西日本で展開された大きな出来事です。
彼は、もともとは伊予国(現在の愛媛県あたり)で役人として海賊鎮圧にあたっていたのですが、やがて自ら海賊的な勢力を率い、瀬戸内海から九州・山陽へかけて朝廷に背く行動を起こしました。
なぜ反乱を起こしたのか
反乱に至る背景として、瀬戸内海沿岸での海賊行為の増加や、地方役人・国司の任地での地位低下・利益の減少があげられています。
純友は海賊の取締りを任されていたものの、その任期終了後も帰都せず、逆に海賊勢力と結びつき、既存の朝廷の体制に対して反発を強めたと考えられています。
どのような戦いがあったのか
純友の反乱の経過を大まかに整理すると、以下の通りです。
まず、939年(天慶2年)12月に備前・播磨あたりの役所を襲撃するなど、反乱の動きを本格化させました。
次に、940年(天慶3年)から941年(天慶4年)にかけて、伊予・讃岐・備前・大宰府など複数の地域で朝廷軍との衝突が起きました。
最終的には、941年5月に大宰府を襲撃したものの敗れ、同年6月に伊予で討たれて反乱は鎮圧されました。
反乱の結果とその後の影響
この反乱によって、朝廷の地方支配力の弱さが浮き彫りになりました。反乱後、純友の勢力は一掃され、地方での国司や武装集団の立場が改めて問われるようになります。
また、この時代において「東の 平将門・西の藤原純友」という言い方がされるほど、二人の反乱がセットで語られるようになりました。
さらに、地方で武装を持つ勢力の台頭が、後の武士の発展へとつながる節目とも捉えられています。
藤原純友と 平将門 の関係
同時期に起こった「承平・天慶の乱」
平将門の乱と藤原純友の乱は、ほぼ同じ時期に東国・西国で起こったため、まとめて「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」と呼ばれています。
このように、東の平将門、西の藤原純友というかたちで、地方で朝廷に反旗を翻した事件が同時多発的に起こったことが、この時代の大きな特徴です。
両者の“つながり”とその解釈
歴史資料では、藤原純友と平将門が直接手を組んでいたという明確な証拠は乏しいものの、当時「両者が同盟を結んだ」という伝承が貴族の日記などに見受けられます。
特に「西で純友が挙兵、東で将門が挙兵」という構図が、朝廷にとっては大きな脅威となりました。
例えば、ある資料では「比叡山で二人が仲たがいなく計画を立てた」という記録も紹介されていますが、現代の研究ではこのような“直接の協力”について慎重に見られています。
なぜこの二つの反乱が一緒に扱われるのか
この二つの反乱が学習や教科書でセットで紹介される理由として、次のような点があげられます。
- 両者がほぼ同じ時期(10世紀前半)に発生し、朝廷の支配力が地方で弱まっていたことを象徴している。
- 東国(関東)で馬を使った武力による制圧を試みた平将門、西国(瀬戸内海・四国地方)で船を使って海上から勢力を拡大しようとした藤原純友という、地域・戦い方の“対比”が見られる。
- この時代を「武士の時代のはじまり」として捉えるうえで、上級貴族・役人ではなく、地方の武力を持った人物が反乱を起こしたという共通点があるからです。
以上のように、藤原純友と平将門は直接の同盟というよりも、「ほぼ同じ時期に、ほぼ同じような背景で、異なる地域で朝廷に挑んだ」という“時代の象徴的なペア”として理解されます。
藤原純友の「覚え方・テスト対策ポイント」
「藤原純友の乱」を簡単に覚えるコツ
「939 → 941年、瀬戸内海、海賊出身、国司から反乱」という大きな流れを頭に入れておくと整理しやすいです。例えば、年号を語呂で覚える方法として「純友、苦策(939)で兵をあげるも大失敗」という語呂があります。
また、「東の 平将門、西の藤原純友」という言い方で、反乱が同じ時期に地域を分けて起こったペアであることを押さえておくのも効果的です。
さらに、純友が「地方の国司(伊予掾)→海賊鎮圧→反乱側に転じた」という“立ち位置の変化”を鍵として覚えると、テストで背景を問われたときにも対応できます。
歴史テストでよく出るキーワード
テストでは以下のようなキーワード・フレーズが登場しやすいため、意味をきちんと理解しておくと安心です:
これらを「誰が・いつ・どこで・なぜ・どうなったか」の5W1Hで整理しておくと、記述問題にも備えられます。
まとめ:藤原純友はなぜ重要なのか
平安時代の政治と地方の反乱を理解する鍵
藤原純友が起こした「承平・天慶の乱」の西側の出来事、すなわち「藤原純友の乱」は、中央集権的な律令制度を軸とした古代国家の仕組みに、明確なひずみが生じていたことを示す重要な歴史的転換点です。
地方の役人が地方の海賊と結びついて反乱を起こすという構図は、朝廷の支配が地方まで完全には届いていなかったこと、そして「武力による実力行使」が地方でも現実の力を持ち始めていたことを象徴しています。
具体的には、次のような影響が挙げられます。
このように、藤原純友の反乱を理解することは、平安時代における貴族政治から武士社会への移り変わり、地方と中央の関係構造、「体制の限界」に気づく手がかりになるのです。
中学生でも押さえておきたいポイント
中学生の皆さんが歴史テストや授業でこの人物・出来事をガッチリ押さえておくために、次の点を心に留めてください。
まず、「時代=10世紀・平安時代中期」「場所=瀬戸内海・伊予国あたり」「立場=国司(伊予掾)→海賊勢力と同盟→反乱」という流れをパッと口に出せるようにしておきましょう。
次に、「東で 平将門の乱、西で藤原純友の乱」という構図を覚えておくと、 ‘承平・天慶の乱’ の名称が出たときに混乱しません。
最後に、「中央の朝廷が地方で弱くなっていた」「武士のような存在が力を持ち始めていた」という大きな社会変化がこの時代のキーワードだと心得ると、単なる年号暗記を超えた理解につながります。
このまとめを頭に入れながら、各見出しで学んだ内容を振り返しておくと、テストでも安心して対応できるはずです。

